カテゴリ:卜べろん
"卜べろん"の一覧
Search
タイトル
作品のタイトル、どうやって決めてますか?
学部3年の終わり頃から、作品につけるタイトルを考えるときに以下のようなルールに則ってつけている。
制作時にタイトルの問題が出てくるのはまず、撮影した素材や、編集ファイルをコンピュータに保存するときのプロジェクトフォルダ名を決めるときだ。
なるべくエラーの発生要因を減らすため、アルファベット、いわゆる半角英数でフォルダ名をつけている人は多いだろう。
僕もそのうちの1人なのだが、フォルダの名前を打つ際に手が止まってしまうことが多かった。
しかし、制作の開始早々から手を止めたくない。
特にその波に乗りはじめているときは。
そこで上記の「英語でつける場合は、作品の映像効果を表す言葉」でフォルダ名をつけるようになった。
そうなった理由は、映像効果のアイデアが出てから制作に移ることが僕の場合は多かったため、映像効果を現す言葉を考える方がユニークな名称を導き出しやすかったからだ。
またこれはフォルダ名だけではなく、作品に付随する種々のファイル名の基本にもなっている。
こうしておけば、アプリケーションの「最近使用したファイル」のリストにファイル名だけ並ばれても、それぞれがどんなファイルか一目で分かる。
そして制作が進むにつれ、作品の全体像が表れてきたとき、自分の作り出した映像効果によって発生する現象が具体的に目に見えてくる。
日本語のタイトルを考える場合は、その発生した現象を言語化したものをベースにしてはじき出す。
言語化と書くと難しそうだが、端的に一言で表したり、複数の単語を挙げたりするだけだ。
この最初の言語化のとき、説明的すぎる言葉が並んだりすることがある。
そういうときは、より抽象化した言葉への言い換えをする。
僕の場合は「…ということはつまり?」を自問自答して導き出す。
抽象化に伴い他言語の言葉になる場合もあるだろうが、説明的すぎる言葉から脱せられる。
作品によって発生する現象を、具体的だが説明的ではない言葉で表現すると、素直な言葉になっていくように思う。
最後に検討することは、モチーフを表す言葉をタイトルに含めるか否か。
これについては本当によく悩む。
モチーフを想起させる言葉がタイトルに含まれていたときに、先の「作品によって生まれるする現象」を破壊する場合があるからだ。
特に、モチーフの性質のほとんどを消すことで生まれる現象を活かした作品で、モチーフに関係する言葉をタイトルに含めてしまうと、逆効果になることが多い。
しかし、モチーフの性質をより強調することで作品が成り立っている場合は、関連する言葉を含めた方が良いだろう。
更にそれが強調されるためだ。
この見極めがいつも難しく、ギリギリになってタイトルから外すことが度々ある。
作者にとっては、作品中でモチーフの性質を消しているという意識があまり働かないからだろうか。
この辺りは第三者からの意見をもとに判断することが多い。
自分の映像作品のタイトルを決める際は、ほぼ以上のようなプロセスを経て決めている。
ときどき直感的に思いつくこともあるけれど、上記のプロセスを経た言葉と比較するようにしてどちらか決めたり、組み合わせたり。
映像の場合は作品の冒頭でタイトルを流すか、最後に流すかも関係してくるので難しいけれど。
こうやってタイトルを決めていくと、個人的には作品を補完するような言葉で構成されたタイトルが生まれやすいように思う。
作品+タイトルによって、更に作品への理解が深まっていくような方向を目指すと、より印象に残りやすい作品になるのではないのかなと思う。
体験を買うこと
ちょっと前にBIALETTIの直火式エスプレッソ器具を購入した。
聞くとイタリアではほぼ一家に一台はあるそうだ。
写真が手元に無くて申し訳ないけど、プロダクトとしてデザインがとても格好が良い。
文字通り毎日使う日用品で格好良いものが身の周りに当たり前にあって、しかも毎日使っていれば、そりゃ自然とセンスが磨かれるわなって思う。
そういえば以前誰かから、「毎日使うものほど自分が納得したものを使った方が良い」と聞いた。
お茶碗やコップ、箸などの食器や鞄とか毎日必ず触れるもの。
もちろん高い物を買えということでは無く、値段も含めてそれを毎日使うことに妥協せず納得できた、自分がこだわったものであること。
デザインでも機能でも「妥協せずに納得できたものと接する時間に対してお金を払っている」という考え方。
ディスカウントショップ、レストラン、映画館とでコーラの価格がなぜ違うのか。
それは、その時その場所でコーラを飲める時間価値や体験価値が異なるからなんだそうだ。
各々の価格に納得してお金を払えるか否かは、人それぞれだからなんとも言えないけれど、
そういう時間や体験に対してお金を払っているという意識は、上京してから抱くようになった。
元からそういった意識が一般的で、自分の意識がそれにようやく追いつけたのか、世の中がそういう方向に変わっていったのかは分からない。
ひとつ言えるのは、良いデザインのもの、つまり、より良い時間を体験できるものが身の回りに並ぶようになれば、世の中もっと豊かになれる。
そんな風に最近思う。
ツール
先日、学部からの友人と自分たちが使う「道具」についての話をしていて思ったこと。
話題となったのは、似たような機能を持つ道具を別のものに乗り換えるとき、一体どんな考えで既存の道具から新しい道具に切り替えるのかということだった。
結論を先に述べると、
“いかに楽に、速く、質の高いイメージを仕上げ、目標のレベルに達せるか”
ということが道具を使う目的なら、別に何を使ってもいいという考えになるのではないか、
そんな風にまとまった。
それで、その道具や、道具の持つ機能を使っていると生まれる独特の発想や、その発想が生まれる可能性の大きさというのが、道具を選ぶときの重要な要素にもなるよなあ、という話も出た。
そして最も重要なのは、その道具を使っていて楽しくなるか。
使っていると楽しくなるというのは、上に書いたことがクリアされたときに経験できることだと思う。
特に、作品の制作にはそれなりの時間がかかるもの。
最も時間がかかるのは自分との対話。
次に時間がかかるのは道具を使っているとき。
しかも道具を使っているときも「自分との対話の時間」が食い込んだりする。
だから自分が使う道具は、それらを邪魔しないものを選んだ方がいいんじゃないかと思う。
使い方を覚えるのが大変だからとか、扱いが難しそうだからとかいうのを、度々周りから聞くことがある。
そういう人に気づいて欲しいのは、使い方を覚えたり扱うのが難しいからこそ、そこから生まれるものに価値があるということ。
誰でも作れてしまうものに価値を与えるのは、最も難しい。
そこに全く別の価値を与える必要があるため。
僕は(特に個人的なことにおいては)難しいことに挑戦して派手に失敗しても全く気にしないつもりで物事は進めていきたい。
その方がスムースに何かを達成するより、いろいろ発見することが多いから。
目的の達成よりも、自分の視野を広げるような発見をすることを重要視したい。
そして、ひとつの道具を極めるために、いろいろな道具を知っておく必要があるように思う。
そうすると、自信を持って「この道具を私は使えます」と言い切れる。
同時に、その道具では出来ないことも言える。
他の道具を使えば出来ることは、そのときその道具を使うか、使える人に頼めば良い。
その道具で出来ること、出来ないことを知り、出来ないことに対する解決策を提示できるようになれば、「その道具を極めた」ということになるのではないだろうか。
本文中の「道具」を別の単語に置き換えても、いろいろと共通する話だなと思うこの頃です。
風呂上がりにふと
ちょっと前に、ふとしたきっかけで多胞体に興味を持ち始め、
そこから自分なりの4次元立体の存在する空間の解釈をたまの時間に考えていた。
で、さっき風呂上がりにふと思いついた。
「表があるから裏がある空間」が自分たちの居る3次元の空間で、
「表が表であると同時に裏でもある空間(その逆も然り)」が、もしかして4次元の空間なのかな。(と勝手に思ってみる)
この発想に至ったきっかけは昨晩、友人と大学近くのラーメン屋で雑談していた内容をちょっと思い返していた時だった。
それは一言で書くとこんなものだ。
「大学から電車で2時間程度の場所に実家があるのは良いのか悪いのか。」
CGのその先
先日、とあるところで「最近の作品は3DCG方面の作品がないけれど、なぜ?」と聞かれた。
「現在の3DCGは現実をコンピュータ上に作り出す(シミュレーションする)ようなことをやっているように思います。でも、そういった分野は僕より非常にうまくできる人が当たり前のようにたくさん居るので、自分にとってのCGで表現する意味が何か、まだわかってないんですよね。」
と答えた。
(※上記および以下、若干言い回しに補正有り)
—じゃあ、君にとっての3DCGってどんなものなの?
中学1年生ぐらいのころに初めて家にパソコンが届いたんです。
ちょうどその頃は映像を自分で作ってみたいなと思っていて、
(確か映画のカッコイイシーンを自分でもできないのかな、と思ったのがきっかけ)
それで身の回りに有るもので映像を作ることが出来そうなもの(カメラなど)を探したのですが、
まともなのがパソコンしかなかったんです。
それが3DCGを始めるきっかけだったので、3DCGは映像を作る一つのツールとしかみていなかったんです。
—君の思うCGの表現はどこに行くと思う?
先ほどお話ししたような現実のシミュレーション的なものか、もしくは多次元を扱うものになっていくのかなと。
デザインとファイン
だいたい下図の通りかなと個人的には思っています。
※注
ただしそれぞれ、
・灰色の小さな円 = 素材や技法などのアイデア
・星 = コンセプト(ゴール)
・矢印の向き = 方向性
・矢印の長さ = 制作過程
を表しています。
自分にピントを合わせてみます。
作品の核となる部分は何だろうか?
自分でその核となる部分を曖昧にしていないだろうか?
そこが無くても成り立つと思ってないだろうか?
一度失敗しているのだ。
何が原因なのか分かっているはずだ。
全力でやりきってくれ。
つまらない後悔はしないようにやりきってくれ。
常識とは違うことをすることが、ここに居る理由ではない。
結果的に常識とは違うことになった、というだけだ。
中々できないからこそ、できるようになるまで努力するしかない。
叶わないような理想を、ただ単に語っている訳じゃない。
何のために作っているんだ?
コンペ?
勉強?
とりあえず作る?
そうではない。
「自分」をハッキリと形づけるために作っているのだ。
その他の目的は、ただのアトヅケなのだ。
あまり使いたくない言葉
「頑張ろう」とか「頑張って」という言葉はあまり使いたくないコトバの一つ。
たぶん結構な数の人が同じように思っているのではないだろうか。
まず、そういうような言葉をかけたくなる相手は既に頑張っている人が多い。
そして、既に頑張っている相手に対してそんな言葉をかけるのは失礼で、また残酷な気がするのだ。
相手が頑張って何かやっていることをこちらが気がついていないのか、もしくはそれ以上のコトバが浮かばないのか…。
実際、時と場合によるだろうけど相手が今何を言って欲しいのか、かなり熟慮するべきかなと思う。
今、相手がどんな状況で、何が必要で、その内自分がしてあげられることは何なのか。
しかし、その時相手に「何をやって欲しいの?」というコトバを直接かけるようなことはしない方がいい。
なぜなら、相手が求めているのは的確な答えではなく、自分が相手に対して「考えてくれていること」であるはずだと思うから。
相手が相手自身の口から、求めていることの具体的な内容を言うこと程辛いことはないと思うから(まぁ、これは相手の頑張り様にもよるけど)。
自分が精一杯考え抜いた応えがイマイチなものだったとしても、精一杯考えてくれただけで相手は安心してくれるのではないだろうか。
相手に頑張ってもらいたい時は、自分が出来ることを頑張って考えないといけない。
「頑張って」という言葉は赤の他人でもかけられますが、「頑張って、とは違うコトバ」をかけられるのは、相手のことを理解する人間でないとかけられないのではないかと思います。
勿論、中途半端にしか頑張っていない相手には「喝」を入れてあげないといけませんけどね。
納得。
『PCそのものは人間の感性や創造を刺激するような道具にはなっていない』
by 山崎和彦
日本アイ・ビー・エム株式会社
ユーザーエクスペリエンス・デザインセンター
UXデザイナー/ マネージャー /Distinguished Engineer(技術理事)
まさにそうだ、という言葉 (まぁ、この人の名刺は作るのが大変そうだけど :-)
PCの前より、ご飯食べているときや、お風呂に入っているとき、
作品を眺めているとき、手に何か画材を握っているときとかの方が
(中身の良い悪いは別として)アイデアが浮かぶことは多い。
個人的な意見ではあるが、やはりキャンバスに比べて狭い画面と
無機質なプラスチックのマウスとキーボード(とペン)
というような人の五感をほとんど刺激しない道具は
感性をなかなか刺激させないのだろう。
しかし、コンピュータはアイデアを具体的な形にしたりするのは素早くできる道具だとは思う。
さらに情報の共有化はもっともしやすい。
特に映像に関しては、たとえば作品を制作するに当たって人を集める場合
脚本や絵コンテをただ人数分印刷してみせるよりも、
簡単なビデオコンテを作ってPCやテレビや何かで見せれば
作品のイメージをつかんでもらうには一番手っ取り早い。
作者自身も、作品の最終形に近い(と言ってもだいぶ遠いけど)状態のものを見ることができるから
これから制作していくものの全体像をより具体的に把握することができるだろう。
現に、前期のデジタルドラマや、1年次の映像基礎の授業では僕はCGでPre-viz(ビデオコンテの発展型)を作り、
実際の撮影作業に入る前にメンバーと情報の共有と確認をしていた。
そして、インターネットにつながっていればたとえ地球の裏側、さらには宇宙にいようとも
作品となるデータを送ることは可能だ。
ITの進歩とそのインフラの整備によって場所と時間を気にすることはほぼなくなり(地球規模で見るとまだまだかもしれないけど)コンテンツを「配信、共有する環境」は整えられたが、
コンテンツを「制作する環境」は果たして現在整っていると言えるのだろうか。
たぶん、皆が皆、"No" と答えるだろう。
正直に言ってコンピュータで「質」の高い作品を作り上げるのはかなり敷居が高い。
制作時に技術面で壁にぶつかることはよくあることだし、
それ以前に基本技術をまともに習得するまで時間を要するからだ。
もちろん、絵画や彫刻などにおいても、そういったことは必ず起こるだろう。
作品の質(クオリティ)を上げるのは時間がかかるものなのだ。
だが、そういうクオリティの面でコンピュータは追求しやすい、つまりトライ&エラーしやすいとよく言われる。簡単にやり直せるからだ。
でも実際には、そうせざるを得ない状況をただ作り出しているだけのように思える。
この操作をするとなぜこのような結果になるのか、が見えにくい(イメージしにくい)からだ。
分かり易い例が、電源を切るときだ。
Windows XPでは[スタート]メニューから[終了オプション]、[終了]ボタンを選ばなければ電源が切れない。
なぜ電源を切るのに「スタート」と書いてあるメニューを押さなければいけないのか、
初めてWindows PCの電源を切るとき、誰もが思う疑問だろう。
本当かどうかは知らないが、電源の切り方が分からず、PC本体の電源コードをコンセントから引っこ抜いて無理矢理電源を切ってしまった人もいるらしい。
電源を切る操作は一度覚えてしまえばなんてこと無い操作の一つだが、
今改めてその操作方法を見返しても、なぜそうなったのかは分からない操作の一つでもある。
(まぁ、電源を切るための「操作のスタート」という意味かもしれないが、どうなのよそれ…)
つまり、そういうような「なぜこの操作をしなければこの結果が得られないのか」ということがつかみにくいのだ。
だから必然的にトライ&エラーを繰り返さなければ(いったん元に戻して動作を検証しなければ)、
なぜこのようになったのかが分からず、
もっと効率的にできる方法を思いついたり、見つけたりすることがなかなかできない。
そんな状況で、コンピュータでコンテンツを制作する環境が整っていると言えるのだろうか。
コンピュータの目先の便利さは確かではあるが、
「本当にそうなのか」
もう一度疑わなければいけないのかもしれない。
夢 と 無 [ ム-ト-ム ]
今日、大学で友人らと話して(というか話を聞いて)いたら、
「なーんか、卜部は話に夢が無いねー。」
と言われました。
良く言えば理論的、悪く言えば冷めたいと言ったところでしょうか。
実家でも家族からそう言われることが多かったのを思い出します。
今日は体調があまりよくなかったので(天気が悪いとね…)
あまり頭がまわらなくて良い反応ができなかったのもあるけれど…
(でも、これは単なる言い訳か…)。
やはり、普段から夢や空想を語るというよりも、現実を淡々と語ることが多いです。
僕はちょっとした目標を持つにしても、
現実的にそれが可能か否かを先に考えるような思考回路な気がします。
なぜそのようになったのかは自分でもハッキリと分かりませんが、
なんとなく、夢(空想)を持つことに対し少し怖く思っているのが原因かもしれません。
ほんのちょっと先(この一瞬後から先)の未来の夢のことはかなり僕は現実的に考えてしまいます。
しかし、現実的にと言っても、
「そいつは無理なんじゃないかな」、
と否定的に考えているより
「たぶん実際はこういう感じになるんじゃないか」、
と予測するような。
夢や空想自体を僕は否定もしなければ肯定もしません。
現実的に考えたときにちょっと冷めてしまうような夢と空想を
そもそも基本的に持とうとしていないからです。
おそらく、本当の現実を知ったときが怖いから、そうしているのでしょう。
前から一度行ってみたいと思っていた場所に実際行ってみると
別に大した所ではなくて落胆した。
すごそうな人だと思って実際会って話してみると
残念ながら大した人ではなかった。
そういうようなことになるのを避けたいが為に、
夢を思い描いたり、空想したりをあまりしないのかもしれません。
また、勝手に期待を膨らませて勝手に落胆するのは対象に何か失礼な気がするからです。
さらに勝手に落胆したせいでそれを嫌いになったら、それこそ自分勝手な気がする。
ただ、これはそれぞれの人間の宗教観によるので、他の人もどうのこうのとは思いません。
単純に、僕はそういう風に考えているというだけの話。
でも、将来かなえたいと思うような大きな夢はあります。
現実的に考えるとバカみたいなやつですが。
「宇宙人の人生を変えるような作品を作りたい」
というのが僕の夢。
自分でもありえなさ過ぎて笑ってしまいますが、
このぐらい規模のバカでかい夢のほうが、僕は夢に思えるんです。
無限に無理に近いぐらいの夢は、もっとも「夢」という言葉に近いように感じるんです。
あー、僕はもしかすると普通の夢とか空想を、夢と空想と見ずに、
まじめに現実のものとして考えてしまうだけなのかもしれない。
理解する目
目茶苦茶忙しい時期に、誰かから特に今必要のない内容の話をされたとき
「何でこんな忙しいときにそんな話を…!」
という発想はしないように意識している。
なぜなら、自分を忙しくするかしないかは自分が決めることであって、
それで他人にどうこうは言えないと思うから。
また、そういう発想をすると途端にその人が嫌いになってしまう可能性が高いから、というのもあるけど。
人を嫌いになるか好きになるかはその人の自由だとは思うけれど、
僕は些細な出来事で簡単に『この人は嫌いだ』と判断したくはない。
もちろん、心に余裕がある時でなければ、それはなかなかできないけれど、
できなかったときは単純に
「あー、自分は今、心に余裕が無いな…」
と思えばいいんじゃないんだろうか。
もちろん、本当にどうでもいいような話をされたら怒ってもいいと思う。
いや、「怒る」というより、「戒める」かな。
とにかく、その人に「今こういうことをされると困るからやめてほしい」という気持ちを伝えないと、
その人は同じことを繰り返してしまうかもしれない。
その意思表示として「嫌いになること」をしているんだと言う人がいるけれど、
その方法だと相手に伝わりにくいんじゃないかな。
「あー、この人は私のこと嫌いなんだ」
で、終わってしまう。
嫌いになるより、もっと良い方法あるんじゃないか、と僕は思う。
美術を学んでいる人間だったら、もっと多面的に考えられるはずだから。
そして、その人の(良い意味での)意外な一面みたいなものを探すほうが、
僕は面白いと思う。
こういう考え方もあるのか、と発見したときはやはり嬉しいし楽しい。
それで、なるべくそういう風にしてこの人がどんな にんげん なのかを理解できる人になりたい。