カテゴリ:一言
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最後のカットポイント
これまでの230のカット
解像度は変則的でフレームレートは気ままなもの
あいだに1年間のブランクカットのある6年弱のタイムライン
画角が狭すぎるカット
アウトフォーカスなカット
露出の安定しないカット
これらのカットに何か価値があったのか分からない
しかし止まることのないフリーランのタイムコードがそれらへ記録されたことに意味がある
その瞬間にしか撮れないショットは多くある
カットのイン・アウトポイントもその時にしか打てない
その瞬間・その時に価値があるのは
それらのカットを振り返ってみることによって
その人のタイムラインをその時に戻すことができるからだ
戻したとしても元のタイムラインを変えることは出来ないが
これから撮るショットをより良く出来るかもしれない
より良いシーンへ導くことも出来るかもしれない
タイムラインを行き来することで、かもしれないことを見つけられるのだ
作り続けることが出来るのは、可能性というものを信じているからだろうと思います。
ムサビ日記に書く機会をつくっていただいた手羽さん、そして読者の方々、これまでありがとうございました。
エンドロールは流れませんが、
ひとまずこれにて終了です。
それではまた。
2012
あけMAUしておめでとうございMAU。
みなさMAUによい年になりMAUすように!
思いつき
(撮影や提示などの)手法・技法によってジャンル分けされている時代が、早く終わると良いなあ。
食堂での会話でふと思ったこと。
映像作品をカテゴライズする意味を、もう一度考えた方が良い気がする。
まー、単純に公募展とかの募集ジャンルでしっくり来ないことが多いからなんだけど。
伝えるのではなく、伝わる
私信
Macを本格的に使い始めたのは大学3年に今の研究室に居始めてからで、それまではずっとWindowsだった。
現在でも制作はWindowsで行っている。ソフトウェアの対応OSの問題があるためというのが主な理由だが。
それから学年が上がり、MacBook Pro(MBP)を購入した。
それが僕にとって最初のMacで、この文章もそれで書いている。
MBPを選んだのは、大学のiMacと自宅のWindows PCとの制作データのやりとりを円滑にするためというのが主な理由で、かなり事務的な理由で選んでいた。
レンダリングした映像ファイルなど、GB単位でのデータを扱うのが常なので、HDDのファイルシステムを共通化しておかなければHDDを認識することすら出来なかったためだ。
またプレゼンテーションをするためのツールとしてもMBPを選んだ。
4年になってゼミに所属すると、ほぼ毎週、担当教員との面談がある。
そのときに面談前の1週間の成果物やアイデア、進行スケジュールを見せるための道具が必要だった。
それはスライドを用意するほど用意周到なものではないが、その場の状況に対する反応が求められるプレゼンテーションの場なのである。
僕の場合は映像効果を構築する作品のため、撮影した素材と効果を適用した映像を見比べることが頻繁にあった。
そのため、より映像再生のオペレートがしやすいインタフェースを備えた道具が必要だったのだ。
映像のフルスクリーン再生はもちろん、ループ再生、スクラブ再生、フレーム単位の指定時間へのジャンプ、コマ送り、再生スピードの調整、別の映像との同時再生、次のファイルへ切り替えのレスポンスなど、映像を再生しながらディスカッションを行うのに必要な機能を搭載したアプリケーションが僕には必要だった。
そしてそういった機能を使うとき、煩雑なメニュー画面を行き来することなくスムースに操作できるレベルになければ意味がない。
Mac OS X(Leopard以降)に搭載されているQuick LookやQuickTimeはその要求に非常に高いレベルで答えてくれている。
またMBPに搭載されているバックライトキーボードとマルチタッチトラックパッドが、その操作性をさらに高めている。
※映像を見せるときは部屋を暗くしてみせることが多く手元が見えにくいのでキーボードが光っていると助かるのだ
また急に映像素材の撮影地の話になっても、瞬時にブラウザに切り替えてGoogleマップを表示させるという行為が2、3秒で出来る応答速度も重要だった。
もちろんPCがなくても状況・経過報告となる面談は可能だ。
しかし、映像を見ることで短期的な目標と長期的な目標をスムースに行き来しながらディスカッションすることの出来る環境そのものが、僕にとってはMBPだった。
また多数の人たちがいる前でのプレゼンテーションでもなくてはならないツールだ。
特にKeynoteは他の類似ソフトを使う気にさせないくらい、プレゼンテーションの内容そのものに集中するためのUIデザインになっている。
正直言って、最初に挙げたデータのやりとりのためというより、Keynoteを使いたいがためにMacを選んだと言い換えてもいいくらいだ。
Keynoteの出番である卒業制作の中間発表でのプレゼンテーションは、Steve Jobsのプレゼンテーションを参考にした。
その際、OS Xの一部機能や、特にKeynoteはJobsのプレゼンテーションのためにデザインされたということも知った。
どおりで上に書いたような「人に見せるための機能」がOSレベルで搭載されているわけだと。
プレゼンテーションはYouTubeに上がっている過去の製品発表イベントの映像を見ながら、これから生まれてくる作品への期待感を高める内容を構想した。
卒制の中間発表のプレゼンテーションはその場で非常に高い評価をもらった。
もちろんSteve Jobsのように壇上をゆっくり歩きながらプレゼンテーションしたわけでも、One more thingがあったわけでもないが、
自分が伝えたいことだけをただ伝えるのではなく、他者へ伝えるべきことが伝わるようにすることに集中した。
正直、それまでプレゼンテーションを行うことはあまり好きではなかったのだが、この体験を通してプレゼンテーションの醍醐味を知った。
発表後、目の前にいる人々の表情が笑顔になっているということ。
そしてその様子を見ることが出来るのは発表者だけだということ。
そのときプレゼンテーションも作品の一部であるということの本当の意味を知り、同時に制作と同じくらいのプレゼンテーションの楽しさを知った。
これに気づかせてくれたのは、あなたのおかげです。
ありがとう。
あなたのプレゼンテーションを、もう見られないことがとても残念です。
安らかに眠ってください。
報告と宣伝
お久しぶりです。
と言っても、復活するわけではありません。
この3月末でこの日記を一旦閉鎖します。(してもらいます)
その前にいくつかお伝えしたいことがあります。
身体の方は、まだ治っていません。治るまでにはまだ時間が掛かりそうです。
そのため4月の頭までは実家で静養しております。
ご心配掛けて申し訳ありません。
大学の方は、もう少し残ります。僕にはまだロスタイムがあるんです。
この日記は、身体が快方に向かったときに、また戻りたいと思います。
そのためにもなるべく治療に専念するつもりです。
まー、I will be Back! ってやつです ;-)
ついでに、少し宣伝を。
本日、『映像表現のプロセス』という本が発売されます。
この本は僕の分身のような人物が執筆したものです。
映像表現のプロセス 板屋 緑 武蔵野美術大学出版局 2010-03-25 売り上げランキング : Amazonで詳しく見る by G-Tools |
そして今年の4月から通信教育課程と造形学部映像学科の教科書にもなるものです。
※通信教育課程版はちょっと表紙デザインが異なるようです。
※現映像学科生はまだ購入しない方が良いかもです。現像学科生にも4月に教科書として配布されるようですので。
本の内容は、前半でムサビ映像学科出身の作家5人(OB/OG/現役)が、それぞれ制作した映像作品5本の制作過程をかなり詳細に解説し、後半は講師のO先生が映像制作における基礎知識を執筆した内容となっています。
また紹介された5作品の本編全てが付録のDVDに収録されています。
他の映像関係の本では見かけないような内容になっておりますので、ぜひ書店等でお見かけの際はご覧ください。
というのが分身君の宣伝文です。
ちなみにムサビ出版局の教科書としては初の黒表紙なんだそうです。
世界堂ムサビ店の出版局教科書棚にも並ぶようなので目立ちそうですね。
そんなこんなでここで一旦お別れです。
ちゃんと復帰できるようになったら、またお会いしましょう。
それでは。
礼儀
どんなに仲の良い間柄であっても、人として最低限の礼儀、尊敬の念は必要だと思う。
自分さえよければ良いという考え方は、ただただ周りに迷惑をかけるだけ。
自分だけプラスになることが、本当に自分の人生にプラスになることなのでしょうか。
R&D
Research and Development : 研究開発
作品制作をする上でのR&Dに時間をかけろという意味か、と思う自分の体調。
芸祭が終わってからというもの、あまり芳しく無いです。
ある神面に衝撃を受けそれに関しての作品を作ろうと思い立ったのですが、
まー、なんというかその神面は結構な昔から色々曰くつきらしいのです。
芸祭の準備で制作を中断したところ、それで祟られたのかと思ってしまうほど
その頃から体調悪化。
※実際はムチウチの影響です
もっとしっかり作らぬか!……と言われているようです。
いやはや、神様って怖いわね。
まったく
大した根拠もないのに、
思慮にも欠けているのに、
私意で楯突いたりするなよ…。
そんなんで何かが変わるのか。
自分の立場を上にしたいだけじゃないのか。
それはただの傲慢ではないのか。
時々、そんな自分の声が頭の中をうごめく。
納得。
『PCそのものは人間の感性や創造を刺激するような道具にはなっていない』
by 山崎和彦
日本アイ・ビー・エム株式会社
ユーザーエクスペリエンス・デザインセンター
UXデザイナー/ マネージャー /Distinguished Engineer(技術理事)
まさにそうだ、という言葉 (まぁ、この人の名刺は作るのが大変そうだけど :-)
PCの前より、ご飯食べているときや、お風呂に入っているとき、
作品を眺めているとき、手に何か画材を握っているときとかの方が
(中身の良い悪いは別として)アイデアが浮かぶことは多い。
個人的な意見ではあるが、やはりキャンバスに比べて狭い画面と
無機質なプラスチックのマウスとキーボード(とペン)
というような人の五感をほとんど刺激しない道具は
感性をなかなか刺激させないのだろう。
しかし、コンピュータはアイデアを具体的な形にしたりするのは素早くできる道具だとは思う。
さらに情報の共有化はもっともしやすい。
特に映像に関しては、たとえば作品を制作するに当たって人を集める場合
脚本や絵コンテをただ人数分印刷してみせるよりも、
簡単なビデオコンテを作ってPCやテレビや何かで見せれば
作品のイメージをつかんでもらうには一番手っ取り早い。
作者自身も、作品の最終形に近い(と言ってもだいぶ遠いけど)状態のものを見ることができるから
これから制作していくものの全体像をより具体的に把握することができるだろう。
現に、前期のデジタルドラマや、1年次の映像基礎の授業では僕はCGでPre-viz(ビデオコンテの発展型)を作り、
実際の撮影作業に入る前にメンバーと情報の共有と確認をしていた。
そして、インターネットにつながっていればたとえ地球の裏側、さらには宇宙にいようとも
作品となるデータを送ることは可能だ。
ITの進歩とそのインフラの整備によって場所と時間を気にすることはほぼなくなり(地球規模で見るとまだまだかもしれないけど)コンテンツを「配信、共有する環境」は整えられたが、
コンテンツを「制作する環境」は果たして現在整っていると言えるのだろうか。
たぶん、皆が皆、"No" と答えるだろう。
正直に言ってコンピュータで「質」の高い作品を作り上げるのはかなり敷居が高い。
制作時に技術面で壁にぶつかることはよくあることだし、
それ以前に基本技術をまともに習得するまで時間を要するからだ。
もちろん、絵画や彫刻などにおいても、そういったことは必ず起こるだろう。
作品の質(クオリティ)を上げるのは時間がかかるものなのだ。
だが、そういうクオリティの面でコンピュータは追求しやすい、つまりトライ&エラーしやすいとよく言われる。簡単にやり直せるからだ。
でも実際には、そうせざるを得ない状況をただ作り出しているだけのように思える。
この操作をするとなぜこのような結果になるのか、が見えにくい(イメージしにくい)からだ。
分かり易い例が、電源を切るときだ。
Windows XPでは[スタート]メニューから[終了オプション]、[終了]ボタンを選ばなければ電源が切れない。
なぜ電源を切るのに「スタート」と書いてあるメニューを押さなければいけないのか、
初めてWindows PCの電源を切るとき、誰もが思う疑問だろう。
本当かどうかは知らないが、電源の切り方が分からず、PC本体の電源コードをコンセントから引っこ抜いて無理矢理電源を切ってしまった人もいるらしい。
電源を切る操作は一度覚えてしまえばなんてこと無い操作の一つだが、
今改めてその操作方法を見返しても、なぜそうなったのかは分からない操作の一つでもある。
(まぁ、電源を切るための「操作のスタート」という意味かもしれないが、どうなのよそれ…)
つまり、そういうような「なぜこの操作をしなければこの結果が得られないのか」ということがつかみにくいのだ。
だから必然的にトライ&エラーを繰り返さなければ(いったん元に戻して動作を検証しなければ)、
なぜこのようになったのかが分からず、
もっと効率的にできる方法を思いついたり、見つけたりすることがなかなかできない。
そんな状況で、コンピュータでコンテンツを制作する環境が整っていると言えるのだろうか。
コンピュータの目先の便利さは確かではあるが、
「本当にそうなのか」
もう一度疑わなければいけないのかもしれない。