見立て
5.12.友人と話していて
映像作品で、あるものを何か別のものに「見立てる」ことは今まであまり興味がなかった
というより価値あることのように全く思えなかった
あるもので別のもに見立てるという行為が、まるでなぞなぞを出しているように見えたからだ
これは○○に見せかけて本当は××を撮ったんだとか、
××で○○を映像で作ったとか、
確かにわかった瞬間はなるほどなと思うのだけど、
そこから先を全く感じなかった
だから何?と醒めてしまう
でも、実は見立てたいそのものをカメラで撮るよりも、別のものを使って見立てた方が表現している本人にとってはよりそのものらしく見えたり感じたりするということに今更ながら気づく
たとえば炎を映像で表現したいとしたとき、火を単純に撮影しても自分のイメージから離れたりする場合もある
撮影のときに工夫すればいいというのももちろんあるが、
自分がイメージしている炎がそもそも火を撮ることで生み出せるのか
火でイメージしているものが作れないとしたら別のものを使わなくてはいけない
だからあるものを使って「見立てる」必要が出てきたのだろう
その他いろいろ気づいたことはありますが、また後日書きます。