« 2008年04月 | トップ | 2008年06月 »
2008年05月の日記
礼儀
どんなに仲の良い間柄であっても、人として最低限の礼儀、尊敬の念は必要だと思う。
自分さえよければ良いという考え方は、ただただ周りに迷惑をかけるだけ。
自分だけプラスになることが、本当に自分の人生にプラスになることなのでしょうか。
アプローチの違い
昨年あたりから基礎デが何をやっているのか気になって(※1)、今年は基礎デの授業を週一でとっている(※2)のですが、先週と今週の授業を通して映像学科と基礎デザイン学科の「とある現象を分析するときのアプローチの仕方の違い」がほんの少し見えました。
非常に大まかに書くと、映像学科は演繹的なアプローチ、基礎デザイン学科は帰納的なアプローチです(※3)。
映像を作るときはカットをたくさんつないでいって1本の作品に仕上げていくので、カット一つ一つの視覚的効果云々より、作品の全体的な効果に対して重きを置くように思います。
もう少し簡単にいえば、作品中の各カットの絵が美しくても、全体を通してみたときにバランスがとれていないとあまりいいとは言えないということです(基本的には)。
なので、ある現象を分析するときは現象の中の細かな事象や要素よりも、現象全体に関係することを重要視していることが多い気がします。
で、基礎デの授業ではその逆に近くて、ある現象を分析するときは現象の細かな事象や要素から現象全体を発見していくという意識を感じました。
この二つの違いはおそらく、『作品自体に時間軸があるか否か』が関わっているからだと思います。
言うなれば、動画か静止画かの違いでしょうか。
映像は個々の要素(カット)に重点を置きすぎると作品としてまとまらない、何を言っているかわからないことになりかねないので、制作時はまず作品を全体的にどうするか決めてからカットそれぞれの細かな部分について考えていくことが多いです。
これは基本的に作品自体に時間軸がある、逆説的に言うと作品の時間軸を成り立たせなければ(基本的には)作品自体が成り立たない為、このような考え方でなければなかなか上手くいかないのかなと思います。
デザインももちろん全体を考えてから各要素について考えていくと思うのですが、まず要素ごとに細かくバラバラに分解していって、そのバラバラになった要素同士の繋がり(関係性)を発見し、紐解いていくことでも全体を構成していくという印象を受けました。
これは作品自体に時間軸が存在するとなかなかできない(難しい)ことだと思います。
つまり時間軸がないから可能であるのかなと。
とにかく、ある現象を分析するときに、それぞれ最初に注目する場所、アプローチの仕方が全く違うということを授業の中で強く感じたので、非常に興味深く思いました。
:-s
最近、課題が全然進まなくて凹み気味です…。
同じ課題をやっている友人には(適切かどうかは別として)いろいろアドバイスというかコメントは出来るのですが、じゃ、「自分のはどうよ?」となると何も思い浮かばず、何も見えず…。
先生と相談したり、これまたほぼ同じ課題をやっている院生の方とも多々相談したりしているのですが、なかなか自分の中に具体的なイメージ(目標)みたいなものが見えてこないので進まない…。
焦りとか、苛立ちとか、どうとかというよりも、
ただ単に映像の難しさ、いや、自分の弱点をモロに感じている状態です。
以下、個人的な反省