›2008年07月25日
インド人も不機嫌な日本の夏
ふかさんのブログを読むとそろそろ夏スクーリングの季節なのだな、と実感できた。bookwormさんも元気に出席されるのだろう。
何年か前、初めて夏スクーリングで鷹の台に行ったとき、久しぶりで学生気分になってるんるんだったものの、3日間の授業が終了したときにはげろげろだった。全世界的に夏休みがある、というのは理にかなったものだということを体で教えられた。
とはいえ夏の鷹の台の雰囲気は好きで、授業には出席しないものの図書館に行って調べ物をしようと思っている。たぶんそこここで制作に取り組んでいる通信の学生の姿を見ることができるし、それが自分のやる気を大きく引き出すのだ。
otoryoshi@gmail.com
›2008年07月23日
夏の京都奈良はすさまじい暑さじゃったよ
20日から3泊で奈良に行って来たんじゃが、りんらんさんが同じ日に京都奈良へ行くとブログに書いておったから、武蔵野美術大学一行と一回くらいはすれ違うと思ったんじゃけど、そんなことは結局なかったな。まあ、わしが聖林寺とか円成寺とかあまり人が立ち寄らないところに行ったせいもあるな。
とはいえ、有名なところでは薬師寺と唐招提寺には行ったよ。唐招提寺は修復工事中の金堂の覆屋が取れたようなので久しぶりに金堂を見に、薬師寺は東塔がそう遠くない日に解体修理に入るため、その姿を目に焼き付けておきたかったのじゃ。修復工事が入ると、どうしても全体の雰囲気が変わってしまうようじゃ、微妙にな。
東塔は何度見ても美しいなあ... 写真も何枚か撮ったよ。丁度坊主が歩いておったから、「おい坊さん、写真を撮るから塔の回りを歩いてくれ」と言おうと思ったんじゃけど、よく見ると安田暎胤管主じゃった。もし言っていたら、数珠で頭を勝ち割られていたろうな。
話は変わるけど、今週の古都の暑さは尋常ではなかったな。夕方、日陰に立っているだけで汗がどばどば流れ落ちたものな。
京都や奈良の寺を巡っていると、「心頭滅却すれば...」などということを聞くかもしれないけれど、そんなことは禅坊主の戯言じゃからな。熱中症対策は基本じゃよ。
otoryoshi@gmal.com
›2008年07月18日
媒体組成研究 第2課題
--- 図版制作の所見---
第1課題で用語として「アウラ」を取り上げたので、この第2課題では「美の礼拝」と「触覚的受容」の二つの概念を選択し図版を制作した。
1. 「美の礼拝」の図版制作
本文献の冒頭で、プロレタリア革命後、生産の諸条件のもとにおける芸術の発展の傾向に関する諸テーゼが、どのような闘争的価値を持つのかについて暗示した後、ベンヤミンは続く節で複製技術とはどのようなものかについて説明し、また芸術作品の真正性とそれに伴う伝統の重みと権威をアウラという概念として提示し、さらに複製の普及によるアウラの凋落が、大衆運動と知覚の変化によることを指摘する。「美の礼拝」という言葉はその直後のV節に初めてあらわれる。古代の像が礼拝の対象であったこと、それを担保するものはアウラであって、芸術作品の価値は儀式に基礎を置いていると述べる。それがルネサンス期以降、世俗的な美の礼拝に取って変わり、それが300年続いた後、複製技術の到来をもって芸術作品は儀式の寄生から解放されたと認識する。
とはいえ、現代においても世俗的な美の礼拝は続いているし、この節でベンヤミンが指摘するように、写真という複製技術の出現に対して「芸術は、芸術のための芸術という教義を編み出すことで反応した」。
世俗的な美の礼拝は魔術的な儀式でもなければ宗教的な儀式でさえもないが、そこには一種荘厳な雰囲気が付き纏う。美術品が権威を持ち、その複製がより多くより広く普及すればするほど、その巡礼は荘厳さを増し鑑賞する態度はより厳粛となる。その美術品が誰でも知っているようなものであれば、それが収蔵されている土地に立ち寄りながら、見に行こうとしない態度は時として犯罪的ですらあるとみなされる。私の友人や親戚はそのような強迫観念にとらわれる人が多いようで、神奈川の私の自宅に立ち寄った時はあわせて鎌倉に案内することを強要する。「美の礼拝」の図版の1枚は友人を鎌倉に案内した時のもの、大仏前でのお約束の記念写真。私はこの後の人生において、何度鎌倉の大仏へ美の礼拝をしに行かなければならないのか。
図版のもう1枚は法隆寺中門前、5月に撮影。最近は秋と並んで初夏も修学旅行の季節となっていて、ひっきりなしに小学生から高校生の団体がやっていくる。彼らは自分たちの価値観とは全く何の関わりもなく、あくまでの大人の価値観から美の礼拝を強要される。とはいえ、最近の修学旅行生は鑑賞態度が良いようで、先生に熱心に質問する生徒が何人も見受けられる。僕の世代は(僕と僕の仲間だけかもしれないが)、美術館に入ったら出口に向かって駈けて行ったけれども。大人による日本美術の美しさの刷り込みは確実に成功しているようだ。
2. 「触覚的受容」の図版制作
XVII節でベンヤミンはダダイズムにふれて、ダダイストたちは「芸術作品を商業的に換金可能にすることによりも、それを静観的な沈潜の対象としての売りものになりえなくすることに、ずっと重きを置いた。」と書く。そのために素材の価値を貶め、作品には屑言語を含め、ボタンやら乗車券やらを貼り付け、アウラを消滅させた。ダダイストにとって制作は気散じであり、また作品は大衆の怒りを買うものでなければならなかったと、ベンヤミンは書く。
ダダイズムにおいて芸術作品は道徳の範囲を外れることによって「一発の弾丸」となりひとを撃ち、触覚的な質を獲得したとベンヤミンは主張する。
次の節では、芸術作品への関与のあり方について述べられる。芸術愛好家は作品を崇拝し、大衆は娯楽をもとめる。精神を集中するのか、くつろぎをもとめるのか。ベンヤミンはここで建築を例に挙げる。「建築は古来、その受容がくつろいでなされる、しかも集団によってなされる芸術作品の、典型だった」「建築物は二重のしかたで、使用することと鑑賞することによって、受容される。あるいは、触覚的ならびに視覚的にといったほうがよいだろうか」。
この後、触覚的受容と知覚に課された諸課題の解決可能性の関連について論が及ぶが、ここでベンヤミンが指摘する意味での象徴的でかつ身近な建築物は何であろうかと考えた。
私見では、伝統的な日本庭園ではないかと考える。目で見て、歩いて、佇んで、あるいは建物の中でひっそりと息をして庭という芸術作品を受容する。図版は、京都詩仙堂での一枚。畳の上を他の観光客と詰め合って庭をじっと見ている。庭と対峙する人も入れば、くつろいでいる人もいるだろうし、自分というものがなくなってただただひっそりと息をしているだけの人もいるであろうと思われる。
(図版は省略)
otoryoshi@gmail.com
›2008年07月17日
ルネッサンス・タトゥー
ムサビ通信に入学してどれくらい経った頃だったか、美術館に行ったり古都の寺社を巡ったときの感想を手帳につらつらと綴り始めた。
ぱらぱら読み返してみると、何を見たかよりどういう天候でとか美術館の周りの景観はとか、混んでいるとか空いているとか、そんなことの方が書いている分量が多い。
美術館がある場所、というのは重要なことと思うし、ゴミゴミしている所よりは開けたところにあった方が気分がいいし、といっても不便なところにあるとそれはそれで立ち寄りにくくなる。
ちょっと話は飛ぶけど、京都の魅力は寺社や活気のある街が東山、北山に抱かれて、鴨川や白川や高瀬川がゆったりと流れている、ところにあると思う。周囲の自然とそこから連想する歴史がなければ、この街が人をひきつける力は半減してしまう。
時々休みを取って京都奈良をぶらぶらできれば良いから、海外旅行に出掛けたいとは思わなかったけれど、西洋美術史を勉強してフィレンツェやローマには行きたくなった。行きたくなったからといって行動を起こすつもりもないのだけれど、ミケランジェロの「最後の審判」は実物を見てみたいと思うし、この絵が描かれているシスティーナ聖堂はどういう建物なのだろうか、と思いをめぐらす。多分、重厚で薄暗くて静謐で、そんな建物の中でミケランジェロの絵をつくづくと眺めてみたい。
優れた建築物だからこそミケランジェロも腕を揮えたのだろうと想像し、長い月日にわたって人々に感銘を与え続けたのだろうと思ってみる。
大体、あの絵が近所の銭湯にあったらと考えるといやだものな、洗い場にいるやくざが「貢の銭」の紋々を入れていたとしたらもっといやだろうなー、と酔っ払った頭で考えてみた。
otoryoshi@gmail.com
›2008年07月11日
みなさん、ちゃんと家に帰れましたか?
西武線で珍念君ととーぼーさんと一緒だったことは覚えているが、あとはあんまり記憶なし。朝起きたら実家におりました。
会社勤めをしていると、大学生と話すなんて機会はまずなくて、ムサビコムの会は得がたいものです。
また社会人1〜3年目のOBと話をしていると、自分のその頃のことを思い出して、世代が違っても悩んでいることは同じであるなと、気づきました。
ちなみに、みちくさとりこさんの父上と同時期に同じ会社に勤めていたことが分かり、驚きました。社会人としてスタートした会社であり、今の技術職としての自分を作った会社でした。なつかしいなあ... (退職金は安かったけど)
話は全然変わるけど、手羽さんは髪を染めているそうです。
otoryoshi@gmail.com
›2008年07月08日
西洋美術史I 第2課題
だいぶ前に書いたレポート。
唯一神を信じるユダヤ教、イスラム教、キリスト教は偶像崇拝を禁じているが、何を偶像と見なすかは宗教によって見解が分かれる。キリスト教では、礼拝対象を像の表現するものと見なすことで、この矛盾を乗り切った。
普通の平信者は、たとえ文字が読めても、聖書を読むことを禁じられていた(堀田善衛「路上の人」新潮社)中世にあって、道徳、教育、価値観を支配した教会が、美術制作の指導的役割を果たした(前田正明監修「西洋美術史」武蔵野美術大学出版局)のは当然と言えよう。
I 初期キリスト教時代
キリスト教においては、唯一絶対である神ではなく人が作った像を拝むことは、偶像崇拝として禁じている(出エジプト記)。しかし、初期キリスト教徒は偶像否定の立場を取りながらも、ギリシャ・ローマ美術の遺産を引き継ぎながら、キリスト教美術の基礎を作った。ローマ市周辺に遺るカタコンベ(共同地下墓所)には、壁画や石棺などの初期キリスト教時代の美術遺産がある。
偶像否定の立場からキリストを直接図像で表現することを避けて、魚や子羊で示したり、タイポロジーの手法が用いられたりした。つまり、聖像否定の立場から徐々に図像学(イコノグラフィー)が確立していく(前田正明監修「西洋美術史」)ことになった。
313年のキリスト教寛容令後に建てられた聖堂は素朴なレンガ積みであるが、内部は大理石やモザイクで飾られていた。ラヴェンナのガラ・プラチディア霊廟のモザイク壁画「善き羊飼い」は、羊飼いの姿で表現されたキリストであり、十字架を象った杖を手に持ち、威厳をもって絵の中心に佇んでいる。羊は衆生であり、右手で優しげに羊の首を撫でている。
II ビザンティン
ヘレニズムと古代ローマの伝統を基礎に、小アジアの影響を受けながらビザンティン美術は発展した。宮廷の荘厳さや装飾を取り入れる一方、精神的霊的世界の可視化を追求している。
前期においては、ローマ帝国の国教としてキリスト教が伝播して行く過程で聖像が数多く制作されたと推測されるが、730年ビザンティン帝国の皇帝レオ3世が聖像を禁止したことから、イコノデュロス(聖像肯定派)とイコノクラスト(聖像破壊論者)の対立が始まり、その後約100年は聖像表現の発達は見られなくなり、また多くの遺品も失われてしまったと考えられる。
その後のイコノクラスムへの反動から様々な図像表現が生まれるが、ビザンティン美術の最後の輝きを示したパレオロゴス朝におけるカリエ・ジャミ、これはビザンティン美術において人間性表現の頂点をなしている(H.W.Janson、A.F.Janson 「History of Art: The Western Tradition」Prentice Hall)。その壁画の「アナスタシス」は、キリストが地獄に堕ちたものを救い出す場面を描いている。中心に描かれたキリストは、足を踏ん張り力を込めてアダムとイブを棺から引き上げようとしている。われわれがステレオタイプ的なイメージとして持っている「奇跡」とは異なっている。
III 西洋中世初期
4世紀後半より始まったゲルマン民族の大移動は、ヨーロッパ各地に王国を打ち立てるに至り、その後の旧西ローマ帝国との融和の過程からキリスト教化し、独自のキリスト教美術を生み出すに至った。
メロヴィング朝に仕えていたカロリング家が次第に実権を握り、カール大帝とその後継者の時代、8〜9世紀に発展したカロリング朝美術は、カール大帝の古典復興の意思を反映し、ここにおいて古代ギリシャ・ローマ文化とキリスト教が融合したと言われている。その後のオットー朝は、カール大帝の遺志を引き継ぎ、この時代の美術はそれに加えて初期キリスト教時代への関心やビザンティン美術の影響が見られる。
この時代の代表的写本彩飾画「オットー3世の福音書」には、中心にルカが描かれ、膝には福音書を置き、頭上には雄牛、預言者、天使が描かれてそこから光がそそいでいる。足下には、子羊が泉から水を飲んでいる。各図像が、キリスト教の主題を端的に表している。
IV ロマネスク
11世紀に入ると、ヨーロッパにおける侵略と破壊の時代が終わり、社会が再建設の方向に向かう。その過程で教会や修道院の再建や新たな建築が始まり、聖堂建築や彫刻、フレスコ壁画が発展した。
この時代の彫刻は、聖堂建築と密接に結びつき、聖フォワ修道院の「最後の審判」や、サン・ティアゴ・デ・コンポステラ大聖堂の「栄光の扉口」のように、壁面や柱に浮き彫りで表現された。
V ゴシック
12世紀後半、ヨーロッパにおける都市の成立・発展に伴い、聖職者や封建領主だけではなく、裕福な平信徒や大学の知識人が文化の担い手として登場してきた。その影響もあり、美術は現実世界に目を向けた自然主義的な様式が生み出されることとなった。
ゴシック建築は、窓を大きく明けて光を取り込み、さらにステンド・グラスよって聖堂内が神秘的な光で満たされるようになった。また、円柱人像から丸彫り彫刻へと古典時代に戻り、その表情も自然主義的な特徴を持っている。
シャルトル大聖堂の聖人像にみられるように、像は必ずしも等間隔で並んでいるというわけではなく、背の高さも均一ではない。姿勢も自然で、表情も柔和である。
この像の質の高さは写実から来るのではなく、均衡のとれた造形による穏やかさにある「History of Art」。
otoryoshi@gmail.com
›2008年07月06日
西洋美術史IIの試験を受けて
とりあえず、イタリア建築については出題されなかった。何度教科書を読んでも、サンタ・マリア・デル・フィオーレ円蓋の設計者の名前が覚えられない。『建築十書』も、ギベルティも、ドナッテロも、アルベルティも、『建築論』も、マザッチョも、いつなにをやったか覚えているのに、あの建築家だけは覚えられない。あの建築家が覚えられなければ、ルネッサンス初期を語ることはできないではないか。
とはいえ、出題されなかったのだからかなり早い時間に書き終わって、すぐに試験会場から出て来た。
試験の後にお酒を飲みに行こうと思っていたから、かなり早い時間に飲みに行ってしまうことになるなあ。
試験について補足すれば、記述式の問題が3題、難しいというわけでなく簡単でもない。良問と思う。
さらに補足すれば試験の後、横浜に戻って野毛で飲んだビールは恐ろしく旨かったなあ。
otoryoshi@gmail.com
›2008年07月05日
「イタリア建築の名前が覚えられない音量子、さえも。」
西洋美術史の教科書は、前のものより今のほうがページ数が少なくなり図版も減ってしまって、少々学習しづらい。作品の社会背景、時代の変遷による美意識の変化についての記述が少なくなって、西洋美術についての歴史的な把握が難しくなっているように思う。
特に「近世」の項は、歴史というよりは著者の美意識の発露というか批評というか、そういった側面の記述が多く、後の章の「近代」「現代」より勉強しにくい、といっても学ぶべきところはある。
などと教科書の文句を言っているよりも、今夜と明日の朝で西洋美術のルネッサンスから現代までの歴史を頭に叩き込めるか、ということの方が僕にとって重要なことなのであるな。
otoryoshi@gmai.com
›2008年07月03日
ある日の朝...
科目試験準備のため、電車の中で「西洋美術史II」の教科書を読む。しかし、建物の名前が全く頭に入らない。
最近ニュースで話題になっているフィレンツェの聖堂の名前は何だったっけ...
駅を降りると、部長さんとヅラのY君が前に歩いている。駅から会社まで話して行くにはしんどい相手なので、距離を取って歩いた。
会社の正門では牛丼屋のおねえさんがチラシを配っていた。会社の敷地に明日牛丼屋がオープンする。
チラシを確認してみると、特うな丼とうな牛丼の割引券しか入っていない。そんなスタミナたっぷりの食物は、僕の人生には全く関わりのないものであるな。
otoryoshi@gmail.com
›2008年07月01日
学習進捗状況 08年度 7月
今年の夏も勉強に打ち込みたい、雑事はなるべく避けて通りたい。
などと考えると、今年の夏祭りの準備に関わらずにすませられる方策を熟考中。
卒業所要単位数(残り)
造形文化科目 0
造形総合科目 4
造形専門科目 14
造形文化+総合科目 4
[造形文化科目]
西洋美術史II
第1課題 合
第2課題 合
文学
第1課題 合
第2課題 合
[造形総合科目]
コンピュータグラフィックス
第1課題 合
[造形専門科目]
メディア論
第1課題 合
第2課題 合
媒体組成研究
第1課題 合
第2課題 添削中
面接授業 合