2008年04月21日
「文学」第1課題
- 井上靖『しろばんば』による文学的経験 -
読書の嫌いだった小学校4、5年の頃、教師から読書感想文の宿題を出されて、学校の図書室でなんとなく借りたのが井上靖の『しろばんば』だった。その本は前編を小学生向けに易しく直したもので、漢字も少なくし振り仮名も振って挿絵もいくつか入っていたと思う。
借りてきた直後に胃腸の調子を悪くして、2週間ほど寝込むことになった。その時に病床で手持ち無沙汰だったのでなんとなくこの本を手に取った。
物語は大正初年の頃のことで、伊豆の天城山麓の村で主人公洪作が祖母ぬいと暮らし、前編は小学校2、3年生の出来事を中心に美しい叔母さき子が亡くなるまで、後編は中学の受験準備を話の軸に5年生の2学期から6年生の3学期の間、祖母ぬいが亡くなり天城山麓の村を離れるまでとなっている。
中学校に上がって新潮文庫版をもとめて(カバー装画は小磯良平だったと記憶する)、それから大学生くらいまでこの本を何度も読み返した。物語の舞台となった伊豆湯ヶ島へも何回か訪れた。なぜこの小説にそれほど惹かれたのか。
主人公洪作と祖母ぬいは血が繋がっていない。主人公の曾祖父が妾の後半生を案じて自家の籍に入れて分家させ、主人公の母を妾ぬいの戸籍上の娘とした。主人公の父親が軍医で転勤がちであった上、妹が生まれて繁忙の時にぬいに一時的に預けられたのがそのままになってしまったと、作中で経緯が語られる。
私は幼少の頃、実家の祖父から目に入れても痛くないほど可愛がられた。寵愛ぶりは今でも親族の語りぐさとなっているが、祖父と私は血が繋がっていない。その経緯は、『しろばんば』の数倍複雑でくだくだしくなるので書かない。
井上靖は後年随筆で、祖母は自分を可愛がることで自身の保身を図り、自分は祖母に甘えることで愛情を際限なく引き出すという「取引のにおいのある関係」と書いているが、私の祖父は戦前の名家の出で取引のある関係では全くなかった、という相違点はあるものの、この作品に対するとき血のつながらない祖母と孫の関係は私の心を鷲掴みにする。
祖父が亡くなったのは私が5歳の秋のことで、88歳であったから老耄とした立ち居振る舞いが記憶に強い。父は役所の仕事が忙しく、母も家事で忙しくて相手にされなかったから、もっぱら祖父にまとわりつき祖父の懐で育った。
今、『しろばんば』をあらためて読み返してみると、後編で祖母ぬいが耄碌したことに主人公洪作が気づいて行くところに、心を動かされる。これは、祖父の思い出もあれば、私の両親が年老いて来たということがある。また、自身の年齢を考えてみるとこれから自分も老いていくわけで、肉体の変化や心の変化が物語を通して想像されるということになる。
後編の2章で、寒い北風の吹いている日に祖母ぬいが洪作のために羽織を学校に届ける場面がある。主人公が教室の窓から外を見ていると、「まるで雑巾でもまるめたようなものが、風にあおられて、少しずつこちらに転がって来るように見えた」のが祖母のぬいで、「洪作は、いつおぬい婆さんはこのように小さくなってしまったのかと思った」。この日から洪作はぬいの老いをはっきりと感じ取るようになる。
さらに4章で、近所の友達からお土産があるから取りにいらっしゃいと言われたことに対して、洪作はわざわざ友達の家に取りに行くことをためらっていると、ぬいが代わりに取りに行くと言い出す。洪作は反対したがその夜、いつの間にかぬいがいなくなっていて、家を出て追いかけてお土産を取りに行く行かないでもめた後、洪作はぬいに対して「欲ふかばばあ!」と怒鳴ってしまう。「おぬい婆さんは腰が曲がるに従って、欲の皮が突っ張って来た」のだが、家に帰ってから、ぬいは「今夜は、洪ちゃに叱られた!」と言って幼い女の子のようにはにかむ。
この小説を初めて読んだ時、時代が大正と昭和でずいぶんと離れているとは言え、自分と等身大の少年の物語に心を惹かれたが、それから長い時間がたって読み返すと、それよりぬいの老いというところに心を動かされる。また、自分自身を振り返ってみると血の繋がらない祖父はどのような気持ちで僕や家族と暮らしていたのだろうか、というところに考えが及んだ。
年に2回、祖父のお墓参りをする。墓地のそばで煙草をふかしていると、いつか自分も老いさらばえて、世の中で1人さびしく生きているのだろう、ということに思い至る。そうして、死んだら祖父のもとに帰って行くのだろうと思う。そんな切実な気持ちを思い起こさせるのが、井上靖『しろばんば』による文学的経験である。
井上靖『しろばんば』新潮文庫、平成19年 85刷
井上靖『幼き日のこと・青春放浪』新潮文庫、平成17年 37刷
otoryoshi@gmail.com
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