2006年03月18日
太陽のように描け、月のように描け
コンセプトワード入選作が発表されたけど、音量子応募作品、「太陽のように描け、月のように描け」は落選していた。インパクトがある標語だと思うのだけれどな。
趣旨説明を再録してみると、
「大学はそれまでの初・中等教育と異なり、受け身ではなく、自らテーマを設定し考えを深めなければならない。教師から与えられるのではなく、自己を造形し表現しなければならない。太陽のように万物を照らし、月のように暗い夜を導く作品を生み出してもらいたい、という気持ちを込めました。」
ちょっと上に立ったような物言いをしているのは、僕がいい大人だから。
珍念さん、小春さん、じおうさん、おきなまろさん、ご卒業おめでとうございます。
みなさん、これからどのような仕事をされていくのか...
大きい仕事、質の高い仕事をしていくためには、高い志が必要と思います。目の前の仕事をこなしているだけでは(これだけでも重要なことですが)、周囲に流されいつのまにか長い月日が経ってしまいます。
高い志を持っていたとしても、ときにはそれを捩じ曲げたり忘れなければならないときがあるかもしれません。
物理学者ファインマンが述べたマサチューセッツ工科大学卒業式での祝辞の最後部分を引用します。
「ですから私が今日卒業者諸君へのはなむけとしたいことはただ一つ、今述べたような科学的良心を維持することができるようにということです。つまり研究所や大学内で研究費だの地位などを保ってゆくために、こころならずもこの良心をすてざるをえないような圧力を感じることなく、自由に生きてゆけるような好運を、との一念に尽きます。願わくば諸君がそのような意味で、自由であれかしと心から祈るものです。」
ここでの「科学的良心」は自分なりに自由に読み替えれば良いと思います。
ありがとうございます!
社会出るの怖いす楽しみです!
これからもよろしくおねがいします。
「科学的良心」、僕は単純に「良心」と置き換えて受け取りました。
良心というか、信念というか。
珍念さん、
ご卒業おめでとうございます。
僕自身は「科学的良心」をもっと具体的に読み替えています。抽象語でなく、自分の仕事の目標としての「TO DO」です。それも短期的なものでなく、非常に長期的なものとしてです。
四月一日生まれの卯月と申します。
1年間休学しておりまして、また今年度は2度目の2年生です。
ちょっと気になったので「科学的良心」について、自分なりに考えてみました。
自由に生きてゆけるような好運、という意味が私にとっては理解しやすい部分でした。
社会に出ていると、本来、自分が通ろうとしていた道から気が付くとちょっと外れてしまって、
日々考えている事も、それに大きく影響されてしまってきています。
そう。大きな志とか、目標とか、それをいつもささやかにでも、近くに置いていないと、
目先の問題にとらわれてしまいがちになります。
最終的な着地点がはっきりしていれば、あとはいくら自由に生きても、その過程で何があってもいいと思っています。
私にとって「科学的良心」とは、自分自身にスジを通して生きるということ、でしょうか。??
卯月さん、
おっしゃる通り自分自身にスジを通して生きること、自分自身の信念を曲げないで生きることを、物理学者ファインマンは指摘しいます。また同時にそのことの難しさも示唆していて、まず生きて行く上で常に自分を曲げないで生きて行くことは不可能でしょう。
ただ、一時期信念を曲げなければならないことがあっても、そのことを忘れないでいさえすれば、またもとの道に戻ることは難しくないと考えています。
外部の力で信念を曲げなければならないことはままありますが、それ以上に気をつけなければならないのは自分自身がその志をいつの間にか忘れてしまうことのように思います。
このエントリーのトラックバックURL:
http://www.musabi.com/blog/mt-tb-musabi.cgi/4749