美大生だけどただの人の子ペロリのリアルな日常を。ペロペロ
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去年と今年の3月11日
3.11ていう表記、9.11と被るからなんかちょっとやなんですけどね
昨年2010.3.11
ペロリはちょうど帰京中だった
以下その日の記録
東京への新幹線に乗車していたペロリ
時期も春休みなため新幹線はいつもより混んでいて
自由席の通路にも人があふれた
隣の女性も同じ歳の大学生くらいで
座われてよかったなあなんて思っていると
2時過ぎに新幹線が停止した
車内はざわついて
電子掲示板に「東京〜静岡間で大きな地震がありました」と表示される
このときペロリはまだ事態の全貌を全く知らない
かなり長い間新幹線は止まっていた
トンネルの中だったこともあり
電波はあまり通じない
車内がだんだんイライラに満ちて行くのが分かった。
少し経ってゆっくりと新幹線が動き出した
ちょうど新幹線は姫路につく少し手前
福岡にいる姉からメール
姫路に新幹線は到着。乗客の半分以上がそこで降りた
姫路から大阪を目指すみたいで
ペロリはまだ事態を把握できてなかったので
地震くらいならまたすぐ動き出すだろうと思って降りずにいた
そこで姉から電話をもらう
すごく心の支えだったのは今だから言える
全く状況がつかめなくて情報源のツイッターとかもまだやってなかったのだ
東北で大きな地震、東京でも震度5というのを言われた
それでも言葉だけなのもあってあんまり伝わらなかったけど
だんだん、もしかしたらただどとではないことが起きているのでは
と思い始めた
またゆっくり新幹線が動き始めて
掲示板に「大阪まで行くけどそこから先は全線運転停止」とかそんな表示があった
隣の席の人と「何があったんでしょうね」とか少し話しをして
もう一度姉に電話をかけた
姉はもう本当に立派だというか見習うべきものを多く持ってる人で
すぐにどう対処したらいいかとか気持ちのこととか
アドバイスをくれて大阪のホテルを探せという話になった
大阪についたのは3時半
もう本当に大人ってダメだなと思った瞬間でもあった
沢山のスーツを着たおじさん達、サラリーマンが
あらゆる駅員に群がって文句をいい、暴言を吐き、怒鳴りつけていた
駅内から改札を出るまでになんと50分
これでもかというぐらい並んで
新大阪の駅は東京方面に行けなくなった人たちが溢れていて
すごく嫌な雰囲気の中
JRの駅員さんたちが総出で列を整理したり呼びかけたり
こんなに沢山の人達が全力を尽くしてるのに
なんでこんなに怒りをぶつけるのか
その雰囲気に押しつぶされそうになった
ざわめきに混じった怒りの声
父から電話があり友人達からメールがあり祖母からも電話
そんな声からの励ましを感じ取りながら
怒鳴り散らすおじさんたちの間をくぐりぬけやっと外にでた
すぐにインフォメーションへ向かう
知り合いはここにはいない
頼る人なんていない
時間がわりと早かった分インフォメーションにも3~4組しか並んでなかった
外国人の夫婦、お年寄り、子連れの親子
みんな不安は感じている
だけどここで慌てたらダメなんだ そう思いながら
受付にたどり着いた
受付の方のあのぶっきらぼうな感じ
悔しいけど涙が出てしまった
そんな風に接さないで大人
ホテルは駅から地下鉄で2駅のところ
そこにいくまでのタクシーの中で運転手さんとの会話で被害の大きさを知った
津波の存在もそこで
運転手さんは料金をまけてくれて
ホテルの人も迅速に動いてくれた
ホテルについたのは5時頃で
そこでやっと映像を見た
ホテルに着くまでは自分のことで精一杯だったけど
知らない場所でこんなにも悲惨なことがおこっていたなんて
それから夜の1時くらいまでずっとホテルでニュースを見続けて
東京にいるはずの友人にメールをして
家族や心配してくれた人達に電話をした
次の日の朝もみどりの窓口に長蛇の列ができて
切符を買うだけで1時間半
動き出した新幹線に乗ってやっと東京についた
そこから震災を中心に様々なことが起ったし
いろんな話をきいた
ボランティアで被災地にも2度足を運んだ
私が感じた事を少しでも多くの人に伝えたいと思った
だからまた東北には行く
それから一年
震災のことは忘れられないというよりかは
私の生活の一部になった
定期的に思い出すというよりかは
ほとんど毎日何かしらについて考える日々
きっと震災がなかったら
こんなに悩みの数は増えないし
なんかこう、私という存在をちゃんと見て行きたいと思わなかっただろう
今日は本当は教習所の授業がこの時間あったけど
そんなもん受けてるより
あの時間はちゃんと被災地のことを思いたいと思って
行くのを辞めた