September 19, 2008
生きているということ
なぜか、親戚が亡くなったという電話を受けるのは、決まって私。
たまたま私だけ休みで家にいる時など、偶然だがいつも私。
たとえ遠縁でも、この独特の雰囲気をまとった電話を受けると、
最低1週間はひきずる。
大好きな祖父が亡くなった時は、どれくらい尾をひいただろうか。
不思議と、電話中はものすごく冷静で、これからすべきこと、
たとえばどこに連絡するとか、葬儀の日程や場所の確認など、
落ち着いて頭の中で整理できる。
だが、電話を切って、他への連絡が済んで、一旦落ち着いたとき、必ず思うこと、
人は死ぬものなんだ 私は今、生きているんだ
毎日ニュースで死者何人とか見てても、そういうことは思わないが、
殆ど会ったことのない人でも、血縁が亡くなると、普段意識していない「死」ぬということ、
そして今、自分は「生きて」いるんだということを、強く感じる。
神々しくもあり、それ以上になぜかとても恐ろしい感覚。
自分がぬくぬく育ったもやしっこなだけなのか、それとも人はだれしもが同じものなのか、
わからない。
今朝突然、サバオの死を知った。
電話ではなく、インターネット上で。
人ではなく、猫だけど、血縁ではないけれど、
今この文章は、おそらくまだ冷静の余力で書いている。
このあと、私はやっぱり、自分の生を感じるんだろう。
守衛室に行けばいつでもいると思っていたサバオ。
いつでも撮れると思っていて結局撮れなかったツーショット写真。
夏の進学相談会バイトで正門のところにいた時、寄ってきたサバオ。
私の水のペットボトルを狙っていたので、手についでやり、飲ませてやった、
まだあの勢いよく飲んでいるサバオの感触は手に残っているのに。
こんなに多くの人に愛され、頭をなでられた猫はいないだろう。
謹んで、冥福を祈ります。
サバオのお墓への地図
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