リアルな美大の日常を
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自分の中の絵画を見つめる。
こんばんは。
上まぶたと下まぶたがとても仲が良いらしく、すぐにくっついてしまおうとします。困ってます。
しかし、困ってばかりも眠ってしまう訳にもいかないので、二人の仲を泣く泣く引き裂くことになります。
すまぬ。
今週の土曜日、共通絵画の第一回講評会です。
この二週間「石」のモチーフと向き合い、描いてきた訳です。
私は予備校時代から絵を描くのが苦痛だった類いの人間なので、描き始める前に相当悩みました。
色を目の前のものに似せることも苦手だし、抽象的に自由にやれといわれるのも苦手。どうしよう。
できないならできないなりにやればいいじゃん!!となるかもしれないけど、下手な割に「下手なものができるのは嫌!!」 な完璧主義?なので「できなかったけどできること」をやることにしました。
つまりは、すごくはできないけど、ある程度はできるもののコト。
まぁ、結果として今デッサンが収拾のつかないことになっているのですが......
さて本題です。
私は今回の共通絵画で「個人のなかにある 絵画もしくは芸術」について考えてました。
「絵画」というやるべき概念を与えられて
それを素直に油やアクリルなんかの絵の具、鉛筆、クレヨンで表現する人。
また、粘土や半立体、「絵画」という枠組みでは用いない材料を使って表現する人。
たくさんな人が様々な切り口、センスで挑戦をしています。
そんな人たちに囲まれる中でそのことについて描きながら考えてました。
(絵を描いていると、何にも考えてなくても何かを考えてしまいますよね。)
どうして、さっきの前者と後者のような人に分かれるのだろう? と。
つまり、「絵画」を描くといわれた時。私たちのイメージする「絵画」は「絵の具や鉛筆で書く」ということが前提になっているはずなのに、なぜ「絵画」ではあまり用いらない材料で「絵画」をする人がいるのだろう? と。
同じ学科のある人が
「物事やできごとの状況を(時代によっては見たままの正確さを)表すことが目的の絵画が、写真の登場によって画像での記録という役割を果たさなくなった。そうしたときに残された絵画は何をするべきなのか?自己表現だけではなく、絵画の未来は何なのか?」
と言っていた。
このことについて、私も高校時代に考えていた。
やっぱり、「絵画」だとか「芸術」にダイレクトに対峙したとき、このことについて皆考えるんだね。なんだか、「芸術」を学び考えるときの暗黙の第一試験みたい。
私は絵画というものが、これまでの絵画以外の「何か」になることは無いんだと思う。
そこで、最初の話に戻る。
「絵画」は「絵画」以外にならない、なんとなくそう思う人が前者のような作品になって
「絵画」を「絵画」以外の何かにしようとする人は後者になるんじゃないかと思う。
なんとなく、そんな風に思った先週でした。
以上、おやすみ。