2010年03月04日

回答と解答

前に指ピアノ論争(みちくささんの日記に詳しい)の時に、
 
「自分は何でもかんでも正しさを求めすぎる」
 
と自己分析したことがあるのですが、
もう少し深く突っ込んで考えてみたら自分の美大生活は、
一人一人違う「回答」と、
絶対的正しさである「解答」との違いに悩まされたものだったんだな、と思いました。
 
※美術に関して「回答」と「解答」という言葉を使うのは国語的に正しくないかもしれませんし、
この二つをきっちり分けることが出来ない気もしますが、
ここではニュアンスでとらえていただけるとありがたいです。

中学校までの自分は、公式を覚えて「解答」をはじき出すことに快楽を覚えていました。
個人的には答えが一つの方が楽だし、トップを目指して目立つことが容易だったからだと思います。
 
だけれども高校で「公式を覚える」ことにつまずいて(量的な意味で)、
さらに現代文で「行間を読む」ことにもつまずいて、
一気に最下位に落ちたあと、選んだ進路はなぜか美術方面。
人と違うことをやって目立ちたかったのだと思います。
(どれだけ目立ちたがりなんだ自分…)
 
受験段階までは良かったです。試験には「解答」とされるものがあったので、
どれだけ評価が低くても、それを飲み込むことが出来たから。
 
でも大学に入ったら、求められるのは一人一人の意見と表現、すなわち「回答」。
偏差値教育みたいに唯一の軸がある訳ではないからそう簡単に目立つことは出来ないし、
講評のときに先生の意見が相違してトークバトルが起こったりすることが、
自分にとってはうまく飲み込めないことでした。
 
「解答」がないから、何を信じていけばいいかわからない、という状況下に置かれていました。
 
 
それでもまだ自分が(彫刻ではないけれども)美術をやり続けよう、と思ったのは、
コミケの列整理うちわのお仕事がきっかけだったのだと思います。
まだまだ稚拙だけれども、自分の「回答」を認めてくれる人がいた、それがうれしかったからです。
(この件をまだ引きずるか、という気もしますが…)
 
見返りを求めてしまっているのはいかがな物かとも思うのですが、
自分を認識してくれる存在がいることが制作の原動力の一つになっています。
 
 
未だに自分は「やっぱ解答らしき物が欲しいなあ…」と思いがちで、
そのために手が動かなくなることも多いのですが、
これはもう自分の性格で仕方ないからいっぱい悩んで、
自分なりの「回答」を作り続けていきたいと思います。
 
 
 
 
 
 
とはいえ、イラストレーションだと顧客という名の「解答」があったりするんですけどね。
そこの折り合いがまた難しそうです…。

Posted by akaiwa at 2010年03月04日 21:37
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