2007年12月15日
自由に鳥が飛び回る、緑色の鳥籠
この日記を踏まえたうえでの回想。
小学生のころ。
とあることがきっかけで手に取った漫画の単行本からは、作者の織り成す無限の世界が広がっているように見えた。
それをいち早く我が手に入れたいがために、掲載誌は毎号買っていた。
その行動には特に疑問を持たなかった。
中学生のころ。
好きだった漫画がアニメになったとき、その出来上がりの悪さに愕然とした。
当時読んでいたアニメ雑誌(というかファンロード…)の投稿欄には、「お願いだから●●を打ち切らないで〜!」という、オトナの事情と戦うコアな漫画ファンの叫びが書き連ねられていた。
漫画やアニメを「売るもの」として意識するようになったのは、おそらくこの2つの経験からだと思う。
高校生のころ。
友人に勧められて(というか、あまりに世間知らずであることを心配されて)、オトコノコのステータス的雑誌を何ヶ月か読んだことがあるけれど。
誌面の裏に見え隠れする商業的攻防戦がつらく見えたし、そもそも雑誌の方向性が自分の感性に合わなかったので、結局読むのをやめてしまった。
世間一般の趣味に合わせられないことに若干の苛立ちを覚えたが、もともと少数派のポジションが好きだった自分の場合はそこまでストレスにはならなかった。
大学受験前:
ふと思い出した、幼少期に見たアニメの記憶。それを頼りにお年玉を握り締めて新春の神保町へ。
予備校のコンクールの採点時間に、20巻以上をオトナ買い。今考えれば受験生失格な行動だ(苦笑)。
その作品はメジャーというほどではないけれど、固定ファンが多い「知る人ぞ知る」タイプの傑作。
自分にとってのターニングポイントとなった作品に気づけたから、世間一般とは若干ずれていても結構平気。
ただ、その作品は4コマ漫画で連載ペースが比較的ゆっくりなので、雑誌をちまちま買うより気長に単行本を待つことにした。
今:
「漫画好き」といってるくせにたいした数を読んでいない。
世間一般で言われる王道作品を知らないので、思考は十分偏ってると思うし、漫画史の流れをいまいちつかめていない。
だからほかの「漫画好き」の人と話が合わない。
単行本では自由な夢が広がっているように見えても、その出典元の雑誌は、「ターゲットに売るため」のデザインがされていて、マーケティングがされている。
雑誌にもよるけれど、ぜんぜん「自由」ではない漫画家さんも大勢いる。やはり漫画は売れなきゃいけないから。
売れなきゃ業界自体が成立しないから。
でも「売れなくてもいい、それよりも良い作品を」ということになると、たぶんみんなの手の届かない存在になってしまう気がする。
勉強に勉強を重ねた一部の人にしかわからない、ハイセンスな世界。
それが業界標準になるとまず大衆的な広がりはなくなると思う。実験作品としてなら存在していいと思うけど。
子どもでも大人でも入り込みやすい表現だから、末永く支持されているのだと思う。
自分もそのうちのひとりである。
物語の夢を見続けたい自分はその現実とジレンマから目を背けたくて、漫画雑誌を否定的に見るようになった。
夢「だけ」見たくて、単行本だけ買うようになったのだと思う。
雑誌内での新たな作品との出会いを求めるよりも、商業臭さから逃げたいがために自分の守備範囲だけ守るようになる。
表現主義の引きこもりっきり。結局背伸びしてない、成長してない。
今は少しばかり緩和されたけれど、それでも漫画雑誌を買う気が起こらない。
一人暮らししてから、漫画に対して日々の生活を天秤にかけるようになったからだろうか。毎週の資源回収が億劫だからだろうか。
いわゆる「ファインアート」といわれる作品も、ルネサンス辺りなら教会や時の国王からの注文制作ばかりだったとは聞くけれど。
(薄利多売でかろうじて成立する)「いまどきの漫画」を、
(売れるのは二の次の)「いまどきのファインアート」のように扱うのはどうなのかな〜。と思ってしまう。
自分も人のことは言えないけれど。単なる勉強不足から来るものかもしれないけれど。
下手にちやほやしてしまうと、この先の業界構造がますます崩れそうだし、一読者としてもそんな現場を見るのが厭だ。
何でこんなことを書いたかというと、kokoさんの日記を読んだから。
現実らしきものを垣間見てから「漫画家になりたい」と思えなくなったけれど、
それでも漫画という表現方法は好きだから、いまでもWEBの端っこでうだうだ言い続けている。
今回は相当取り留めのない日記になってしまったが。
う〜、また間を置いてリベンジしたい。
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